品川屋敷へ_長州藩3

嘉永七年三月十三日

この年三月、竜馬は築地屋敷から品川屋敷に移され、台場の警備を命ぜられた。むろん書生の分際だから、竜馬が自嘲する「雑兵」である。

ペリー艦隊は、どうゆうわけかなお去らず、艦砲を陸上に向けたまま無言の威圧を加えている。諸藩の陣地は緊張しきっていた。
国詰めの藩士たちも江戸へくだってきた。

竜馬ら剣客は重宝された。軽格の出身ながら、毎日、藩士たちの師範格になってはげしい稽古をつけた。
竜馬は、教え方が独創的でうまかったから、かれのもとに多くの藩士があつまった。

品川詰めの家老、山田八右衛門にまで名を知れたのは、この警備隊の剣術教官としてである。

memo 長州藩の成立ち3

1836年に最後の藩主となった敬親(たかちか)は、家臣の意見には反対しないという統治スタイルで、政策を家臣に委ねていました。

1831年の「天保一揆」や、1833年「天保の大飢饉」が起こり、藩政は困窮。民衆の間では女子供を奉公という形で売ってしまうことも横行していた。

飢饉だけでなく藩の負債も膨れ上がる中、1836年に毛利敬親が藩主となる。村田清風を登用し、このころから「雄藩」として力をつけていく。

家老の村田清風(せいふう)がおこなった「天保の改革」では、税を課すために藩専売だったろうそくや紙などの特産物売買を商人にも認め、下関には貿易商社の役割をする「越荷方」を設置し収益をあげていきます。

諸外国との交易や新田開発などにより100万石の収入を上げ、討幕の資金を蓄えることができる裕福な藩になる。

一方で長州藩は、人事育成に熱心で、1719年に5代藩主の吉元が全国で12番目の藩校である「明倫館」を創設。受講資格は一定の身分がある藩士の弟子のみでしたが、そこで学んだ者が自ら郷校や私塾を開き、そこで学んだ者が寺子屋を開いて庶民に教えるという教育のサイクルができあがる。

1842年に玉木文之進(たまきぶんのしん)が「松下村塾」を創立。ここで幼い吉田松陰を厳しく教育します。

「国を支えるは人である」という考えを強くもった藩でした。