そのおつむ、どうなされたの_長州藩2

嘉永七年二月二十日

竜馬が桶町の道場に戻ったのは、幕府が下田、函館の両港を開くことに決定し、ペリーに回答した二月末になってからである。
ひさしぶりに道場に戻った竜馬は、貞吉先生に挨拶するため、道場から中庭におりたとき、さな子とすれ違った。

(まあ)という眼を、さな子はした。
竜馬は足を止め「なにか御用ですか」
さな子は真っ赤に上気している。なにか懸命にこらえているらしい。
「そのおつむ、どうなされたのでございますか」
「ああこのことですか」竜馬は頭をなでた。
総髪(芝居の山内伊賀亮のような髪型)にするつもりが、月代がのびて芋頭のようになっている。まげの形も、ひと月前とは変わっていた。以前は、元結から先を垂らしていたのに、まがりなりにもふといまげを結っている。
「もう二十歳ですからな」

memo 長州藩の成立ち2

江戸期・徳川幕府からは外様大名だが、関ヶ原の戦いの西の総大将として丁重に扱われる。
一方その立場のため、徳川家との養子縁組や政略結婚を持ちかけることができなかった。
徳川家と縁組できなかったのは大きく、同じ雄藩の大名でも、薩摩・土佐・宇和島・越前の大名は参与会議を開き国政に参加していたが、長州毛利家はこの会議に参加していない。

篤姫を家定に輿入れした島津家。譜代大名の越前藩・松平春嶽。関ヶ原で東軍だった土佐藩・山内家。幕臣旗本から養子縁組で宇和島に入った伊達宗城など、いずれも徳川幕府と何らかの縁組がある。

徳川と縁組なく安定して藩を運営するには大変な時代。