ペリー再来_長州藩1

嘉永七年正月十四日

去年にやってきたアメリカのペリー総督が、正月の十四日、ふたたび艦隊をひきいて再来し、さきに幕府に呈上した通商開港に関する国書の返答をきびしく要求しはじめたため、諸藩の沿岸警備隊は再び臨戦状態に入り、竜馬も黒船が去るまでのあいだ、築地の藩邸に詰めっきりになった。

memo 長州藩の成立ち1

現在の山口県にある周防国と長門国を領国としていた長州藩。藩主は毛利家です。

鎌倉時代
源頼朝のブレーンであった大江広元の四男、大江季光(おおえすえみつ)を先祖として、時代の移り変わりで地所を没収されながらも、毛利元春が北朝方の今川貞世の味方をして南朝征伐に加勢して功績をあげ、安芸の地をもらい、戦国毛利家をスタートさせる。

戦乱で凋落して即位の儀が行えない正親町天皇のために、献上金を渡し、3年間即位の礼を挙げられなかった天皇を助ける。その折より天皇家と太いパイプができる。
同時期、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。

桃山時代
藩祖の毛利元就(もうりもとなり)の孫である輝元(てるもと)は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防など中国地方10ヶ国にまたがる約112万石を有する大藩となる。

1600年の「関ヶ原の戦い」で西軍として参加し、西の総大将に祭り上げられる。
関ヶ原で敗北し、徳川は嫡男の秀就(ひでなり)に周防国と長門国の領地36万石に減らされる。実質上の初代藩主は輝元だが、形式上は秀就。
関ヶ原後の財政は厳しく、百姓や商人になった武士たちもいたそう。