築地下屋敷

嘉永七年正月五日

年があけ、竜馬も二十歳になった。
そのころ竜馬は、鍛治橋の藩邸から築地の藩邸に移されていた。竜馬だけでなく、わかい藩士のほとんどが築地・品川の下屋敷に移されていたのである。
「竜さん、それは不便だよ、いっそ道場に住みこんだらどうだろう」と重太郎が言ってくれたので、差配の組頭に申し出ると「いいだろう」とあっさり言った。

重太郎はむろん多大喜びだが、さな子だけは、ちょっと妙だった。
「うれしい」ととびあがって、「馬鹿」と重太郎に一喝されたが、そのくせ竜馬に対する態度は、妙である。
(おそらく、わしが深川の色里の女に入れあげて、仇討ちの助太刀までしようとしたのを軽蔑しているのだろう)

写真 東京築地内/日本海軍発祥の地の記念碑 201708

memo 日本海軍発祥の地

東京の築地市場は平成三十年10月に豊洲市場に引き継がれた。その旧築地市場の中の神社横に鎮座しているのが上記の碑です。
築地市場の構内にある“水神社”。
江戸時代に松平定信が老中退職後に隠棲した「浴恩園」と呼ばれた別邸があった場所。1872(明治5)年ここに海軍省が置かれ、浴恩園内の築山に海軍卿の旗が掲揚されたため旗山と呼ばれた。
旗山の碑は、1933(昭和8)年に築地市場が移転してきた時に元の位置から少し動かして現在の場所に移ったと言われる。

築地周辺には海軍大学校・海軍軍医学校・海軍造兵廠・海軍経理学校などの施設があり、海軍の町だった。今も海軍経理学校、海軍兵学寮跡海軍軍医学校跡、軍艦操練所跡などの碑が建っている。

日本海軍発祥の地として、宮崎県日向市に「日本海軍発祥之地」がある。
神武天皇が日向から大和地方に向かって“東征”を行ったのは西暦紀元前666年、橿原の都で天皇として即位したのは紀元前660年のことで あったとされる。東征の軍は宮崎の皇宮屋を発して、ここ美々津の港で船に乗り瀬戸内海を経て紀伊半島に向かった。即ち東征の軍を運んだ水軍は天皇のもとで 行動をした最初の海軍である、とされる。

神戸市にも、「日本海軍発祥の地・海軍操練所跡碑」がある。(神戸市中央区新港町)
江戸時代の1864年(元治1年)5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により、幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関。
攘夷論の高揚と共に摂海(大阪湾)の防備が重要視され、文久3年(1863年)に幕府は兵庫や西宮に砲台の築造を決定。その指導を任された勝海舟は、同年4月(1863年6月)に14代将軍徳川家茂の大阪湾巡視に随行し、生田川河口(神戸村内)に上陸。家茂から直々に、この場所に海軍の操練局開設の許可を得た。