佐久間象三に学ぶ

嘉永六年十二月一日

その年も暮れた。

memo 佐久間象三

1853年12月1日、坂本龍馬は、佐久間象三の門を叩き、砲術を学ぶ。

1840年のアヘン戦争で清国の敗北に驚愕した徳川幕府は、老中真田幸貫に海防掛を命じる。その折、佐久間象三が、洋学研究者として顧問に入り、近代洋式砲術を学ぶ。藩主真田幸貫に意見書「海防八策」を提出するとともに、カノン砲の鋳造を開始して名を高める。

私塾「象山書院」の塾生には、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬など、多数。

===

学者と戦う武士道の両面を持った人物で、「凡そ学門は必ず 累積を以ってす。 一朝一夕の能く 通暁するところに あらず。」の言葉は、学門は一朝一夕にできるものではないと言っています。
普通「尊皇」とくれば「攘夷論」になっていた時代に、「尊皇開国」という考えを持っていました。幕府や皇族ではなく、しっかりと海外を見据えないといけないという考えは、塾生にも伝わっていったのでしょう。

弟子の吉田松陰が1854年に米国密航を企てた罪に連座して9年間松代に蟄居します。
「省けん録」(過ちを省みる記録)には、その獄中のことを記していますが、実際は自分の思想と行動を振り返りながら、その行動の正当性を主張した部分が中核になっています。

他人の意見に惑わされない、独立独歩の精神を持った人物です。

大砲はイメージ