クリミア戦争開戦

幕末の女性

クリミア戦争

1)イェルサレムの聖地管理権問題
もともとはフランスが管理していたイェルサレムですが、フランス革命の混乱期にロシアの支持を受けギリシア正教会に管理権が渡ります。
ナポレオン3世はオスマン帝国に圧力をかけてこの権利を取り戻したのです。

ロシア皇帝ニコライ1世はそれに反発して、ギリシア正教徒の保護を名目にオスマン帝国全土に政治干渉を始めました。

ロシアがイェルサレムを「保護する」というのはあくまで名目で、南下を目指すロシアにとっては、オスマン帝国内に侵入することが目的だったのです。
周辺各国による調停が行われたものの足並みがそろわず、交渉は失敗に終わり、1853年に開戦となりました。

2)オスマン帝国の弱体と宗教問題
小アジアからバルカンまでの領域を支配するオスマン大帝国は、スラブ系の民族もいますが、種々の民族を含む多民族国家です。
宗教も様々で、バルカン半島の国々はスラブ系でキリスト教徒でしたが、宗教的な支配者たちはムスリムであることから、この点では宗教的な対立でもあったのですが、民族主義の台頭と共に、民族独立運動が起こり、オスマン帝国は弱体化していきます。
オスマン帝国の領土問題と民族問題をめぐり有力国が干渉した結果生じた国際的諸問題を「東方問題」と呼び、オスマン帝国の弱みにつけこんで、列強が利権争いを始めたというように考えることもできます。
こうした状況がクリミア戦争の背景としてあります。

クリミア戦争で、オスマン帝国は、イギリス・フランスに支援を要請し、両国はロシアの「汎スラブ主義による南下政策」を牽制する目的で積極的に支援して、1854年にロシアに宣戦布告。
戦争では、イギリス、フランス、サルデーニャがオスマン帝国を支持し、オーストリアもロシアに協調しませんでした。
孤立したロシアは1856年に敗北という結果に終わりました。

クリミア戦争と幕末日本

このクリミア戦争勃発で、欧州列強やロシアはすべてがクリミア問題に関わることとなります。
新興国のアメリカがペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、欧州列強が極東地区に対して手薄になっていたタイミングともいえます。

クリミアの天使

イギリス本国では、クリミア戦争の戦況を新聞報道で、
「前線での負傷兵の扱いが悲惨な状況」であることを伝え始めると、世論が沸騰。そこでシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼します。
1854年11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて従軍します。

当時、女性の看護師を従軍する仕組みがなく、ホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否。
不衛生な兵舎病院の、便所掃除の手伝いから病院内に割り込みます。
本国のヴィクトリア女王が「ナイチンゲールの報告を直接自分に届けるように」というお達しが届き、ナイチンゲールと看護婦団は職務に就くことができるようになりました。
ナイチンゲールらが着任すると負傷兵の死亡率は改善し、その働きぶりから「クリミアの天使」と呼ばれました。
その後、看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来します。