お冴

竜馬がゆく

嘉永六年八月廿二日

竜馬は金を藤兵衛に預け、二人で「よしや」という家に上がった。部屋は二階で、藤兵衛はなかなか上がってこない。竜馬が寝転がると、足下のふすまが開いた。

女はいかにも法にかなった所作でふすまを立てると
「冴ともうしまする」
「仇討ちをなさるそうだな」
「助けてくださいますか」
「あぁ、承知した。相手はどれほどの腕かはわからないが、たいていおれで間に合うだろう」

「冴は嬉しゅうございます。冴のできることは坂本さまの横で、添臥しさせていただくことだけでございます」
「それは困る」龍馬は赤くなった。
「なぜでございます」
龍馬は腰を探って、なめし皮で作った小さな巾着のようなものを取り出した
「ここに、それはいかんと書いてある」

修行中心得大意

撮影/鯛よし百番 2018

memo 岡場所

幕府公認の遊郭は吉原だけと言う決まりがあったが、非公認の遊郭があった。それらを岡場所と呼んだ。
江戸開城の時にはすぐに40件ほどのお店があったそうです。

有名なのは、深川や根津、それに江戸四宿。
江戸から五街道に別れた最初の宿場で、東海道は品川、甲州街道は内藤新宿(現在の新宿1丁目〜3丁目)、中山道の板橋宿、奥州・日光街道の千住である。

宿場町で娼婦を置くことは禁止していたが、宿一軒に2人まで飯盛女を許可していた。板橋・千住・新宿には150人程度、品川には500人もの飯盛女が給仕をしていたらしい。

品川の宿をお題にした「居残り佐平次」や「品川心中」を聞くと、少し遠出をして遊びに行く高揚感もあったのだろう。