徳川 家慶 死没

嘉永六年六月二十二日

memo 徳川 家慶

ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、幕閣がその対策に追われる最中、6月22日に薨去。享年61。

暑気当たりで倒れた(熱中症による心不全)のが死の原因と言われている。

父・家斉と同じく焼き魚の添え物になる生姜が大好物だったが、天保の改革の際、倹約のために生姜が食膳に上らなくなったことで憤慨したという。

与力 中島三郎助のその後

ペリー艦隊を間近で見て、海外の艦隊と立ち向かうためには、幕府も蒸気船を含む艦隊の設置が必要だと、老中・阿部正弘に提出した意見書で提言。
翌年の嘉永7年(1854年)に完成した日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。

安政2年(1855年)、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた。

その後は、慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁・榎本武揚らと行動を共にして江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。

ペリー艦隊には、スパイのようだと思われていたが、国内においては分け隔て無く、吉田松陰・宮部鼎蔵らに訪問を受けたおりには、海防について教授した。

日本で初めて黒船に乗った人物として、横須賀市や函館市で「中島三郎助まつり」がおこなわれている。