ペリーの来日計画

memo マシュー・カルブレイス・ペリー

ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこで彼は、以下のように述べている。

1)任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。

2)日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。

3)中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」

4)オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。

黒船の浦賀来航

1853年嘉永6年6月3日。
午後5時に、浦賀沖に現れ停泊。

6月4日。
幕府は、浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。

6月5日。
浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ねたが対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。ペリーは3日の猶予と、「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけた。

6月6日。
早朝から測量艇隊は湾内深くに侵入。

6月7日。
「姑く耐認し枉げて其意に任せ、速やかに退帆せしめ後事をなさん」と国書を受領し、返事は長崎オランダ商館長を通じて伝達するよう、浦賀奉行井戸弘道に訓令し、交渉に当たらせた。

6月9日。
老中首座阿部正弘は「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」と、ペリー一行の久里浜上陸を許し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見した。
幕府は「将軍が病気であって決定できない」として、ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げた。

6月10日。
ミシシッピー号に移乗し浦賀より20マイル北上して江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み、江戸幕府に充分な威嚇を示す。

6月12日。
江戸を離れる。

琉球に残した艦隊に合流してイギリスの植民地である香港へ帰った。

wikipedia 「黒船来航」より抜粋