一隻で大名じゃ

嘉永六年六月九日 浦賀

三人と別れた竜馬は、足のつづくかぎり浦賀街道を南に向かって駆けた。
夜が明け、昼は山中で寝た。浦賀についたのは、翌々日の未明である。

ペリー艦隊が浦賀にきた真相は、ずっとのちになってイギリス人グラバーから聞いたものだが、もともとといえば鯨漁が目当てだったらしい。

(これはこれは)
崖っぷちまで這い進んで、(まるで鯨のばけもののようじゃなあ)
海上に浮かぶ四隻の黒船を見下ろして舌を巻いた。
(あの船、一隻でも良い、おれのものにならぬものか)

(一隻で大名じゃ)竜馬は空想した
(大名になれば、何をするかい。いっそみんな大名にしてやればどうじゃ。侍はおろか天下の百姓、商人、職人、すべて大名にする。)・・・・

「もし、ここで何をなされておる」
「黒船を見ちょる」
「この男、不審者である。番所へ引っ立てい」「まった!」

「おンしらは敵を間違うちょる。敵はどこにいる。あの黒船ではないか。俺をひっ捕らえても黒船は沈まん。どうだ、ここにいるみんなで、あの四隻の黒船のうち一隻でも奪い取りに行かんか。勝算はある」
(こいつ、狂人か)みんなは呆れた。

「不審だ。ひっとらえろ。」
おい、見ろ。戦だ。
四隻の黒船がにわかに浦賀を抜錨し、江戸に向かって突進しはじめた

後でわかったことだが測量をし始めたのだ。

Photo/サンフランシスコ

memo 与力 中島三郎助の憂鬱4

ペリーはカッターボートに分乗し選抜された四百人あまりの士官、海兵隊員を引き連れ久里浜に上陸した。
ペリーの日記には「1マイル以上にわたって五千から七千あまりの日本軍が整列していた。騎兵・砲兵・弓兵からなっており、一部は火打ち石銃を、砲兵の大半は火縄銃だった」
装備は、三百年変わっていない。
ペリー軍も抜かりなく陸上ギリギリまで軍船サスケハナ号・ミシシッピ号を並べている。

中島三郎助と香山が、浦賀奉行を名乗ったため、日本の最高顧問として戸田伊豆守氏栄、補佐役井戸石見守弘通を紹介する。共に実際の浦賀奉行だが、致し方ない。

今回は書簡の受け渡しのみ。大統領からの国書は金蘭豪華な紫檀の箱に収められていたらしい。
受領書には「確かに受け取ったので、港を離れるように」と記したらしい。

受け渡しが終わり次第ペリー一行は、船に戻っていった。ようやく帰ってくれるのかと思っていると、またもや、江戸湾の測量を始める。全く持って・・・。