甲冑、刀槍

徳川幕府

嘉永六年六月六日

その翌々朝、やっと出勤令が出た。
竜馬らは、品川に送られることになり、早暁、隊伍を組んで鍛冶橋屋敷を出た。

「武市さんよ」
「なんだ」
「こうとわかっておれば古道具屋でもやっておくのだったなぁ」
うわさでは、諸藩の武士が江戸じゅうの道具屋に駆け込んでを買うために、それらの値段が三倍にも上がっているという。道具屋が大きにもうけたろう、と竜馬はわらうのだ。

焰硝も同じことである。
讃岐高松十二万米が、市中の笑い者になっている。至急に焰硝を求めようとしたが、やっと二貫目だけ泣きたくなるような高値で手に入れた。

御親藩も、おしまいだなぁ
竜馬は、三百年威張り散らした正体がこれか、と思った。

memo  与力 中島三郎助の憂鬱3

ようやく幕府からの返事が届く。
「ペリーの要望通りに、上陸して国書を受け取る事を認める。
そのかわり、海岸のできるだけ近くに施設を作って受け取る事。返答は後に長崎・出島で渡す事。」
これをペリーに飲み込ませる事ができるのか?中島三郎助はふたたび香山とサスケハナ号に乗り込む。
返答をペリーに伝えると、
「なんで、江戸から遠くはなれた長崎なんだ。長崎に行くつもりはなく、オランダ人や中国人を通じて連絡を受け取るつもりも無い。」と、にべもない返答。
さらに「とどこおりなく返答をえられなければ、我が国が侮辱を受けたものと見なし、その結果として何が起ころうと当方は責任を負いかねる。数日中に返答を頂きたいし、その返答を受け取るのは、この近辺以外に考えられない」
青くなって奉行(の香山)と引き返し、実際のの浦和奉行の戸田と井戸に報告し対応を聞いた。
その午後に再びサスケハナ号に戻ると
「国の重鎮たる人物が正しく皇帝の信任を得て、明後日に岸にて艦隊司令長官を応接するために来る」事と、応接場所を久里浜と伝えた。
さっそくペリー軍は、蒸気船がどこまで近づけるか久里浜一帯を詳細に測量し始めた。