仙台平

嘉永六年四月二十日

さな子は、千葉貞吉の長女で。色が浅黒く、ひとえの眼が大きく、身体が小ぶりで表情の機微に動く娘だった。いかにもこうゆう娘は江戸にしかいない。

貞吉は、兄の重太郎とさな子を同席させ竜馬と引き合わした。
「あの父さま、坂本さまにものをおたずねしてもよろしゅうございますか」
相変わらず差し出たやつだなと兄に言われながらも
「さな子は女でございますから、お召し物のことを伺いとうございます。江戸ではめずらしいおはかまと存じます」
「えっ、これですか。ただの仙台平です」
「でも、江戸では左様な模様のついたはかまを仙台平とは申しませぬ」
「ハァ、これは難儀じゃ。いかん。」
龍馬は自分でも気づいたらしく、土佐ことばでせきこんで
「墨がいっぱいついちょるわい」
竜馬の弁解では、ゆうべは手紙をいっぱい書いたらしい。

でんぱ組.inc風コラージュ(Qs)

memo 千葉佐那

千葉道場の娘で、武芸に秀でた「さな子」。
文献では 千葉佐那 の名が残っています。
北辰一刀流剣術開祖、千葉周作の弟・桶町道場千葉定吉の次女として生まれます。
坂本龍馬も土佐の姉乙女に宛てた手紙で、「長刀も上手く、力があり男並みに強い」と称賛しています。その上、美人で「千葉の鬼小町」などと称されるほどでした。

土佐には「花見時の上野で暴漢に襲われているところを折良く通りかかった龍馬が助けたのが最初の出会いだ」という伝説(?)が残っているようですが、喜劇のような伝説ですね。

坂本龍馬の正式な婚約者で、刀や着物を譲り受けたといいます。
彼女もこの動乱の時代の狭間で苦労をしたのでしょう。

当時、結婚は親が決めること。千葉家と土佐・坂本家で話を進めていて、婚約が決まったのは安政5年(1858年)頃のようです。
しかしその後、龍馬は土佐に帰り結婚の話が進まない。そして両家が代替わりして兄が家長になる。当の龍馬は脱藩して行方不明(幕末の志士には失礼な表現ですみません)。

話を進めた親がいなくなり、相手が行方不明なので、婚約破棄の話も当然出たことでしょう。それでも後々まで婚約者を名乗っていたのは、さな子自身も思うところがあったのでしょう。

龍馬と結婚したお龍は「龍馬は『佐那には随分世話になったけど、あまり好きにはなれなかった』と言っておりました」(意訳)と言っていたようですが、これは真実なのかお龍の嫉妬なのかは今となってはわかりませんね。