べこのかあ

土佐藩

「なんじゃ、坂本。そのかっこうは。人を嘲斎坊(ちょうさいぼう)にしくさるか」
「おれは、べこのかぁじゃけんのう。べこのかあがべこのかあどもを退治するのは、この格好が一番えぇ」
「ちぇっ、この べこのかあぁ」せまい部屋に土佐言葉の罵声がはんらんしたかと思うと、なかまの一人が行灯を消した
「かかれっ」

行灯がへし折られ、障子が倒れ、根太がゆるむほどの大騒ぎになった。
「竜馬を伏せたぞ」

「もうよかろう。明かりをつけろ」
中から、半死半生で出てきたのは、謹直な武市半平太であった。
「ご一同、ひかえなさい」竜馬はコソコソと部屋を出て行った。

「まず、軍略を心得ちょる」と、このふんどし事件の後、鍛冶橋の土佐藩邸で、竜馬の人気がにわかに上がった。
武市先生、なぜ竜馬の非礼をおとがめにならなかったのです」
「秀吉も家康も、黙っていてもどこかあ愛嬌のある男だった。明智光秀はひとに慕い寄られる愛嬌がなかった。英雄とは、そうした者だ」
「竜馬は英雄ですか」
「もろこしの項羽は、文字は名を記すに足る、といった。英雄の資質があれば、それで十分さ」
その頃、武市がほめちぎった「英雄」は桶町の千葉道場の板敷きの上で竹刀を上段にとってあぶら汗をながしていた。
相手は道場主千葉貞吉の息子重太郎で龍馬よりは一つ年上の目の細い若者である。

竜馬がゆく

土佐弁 べこのかあ

べこのかあ

土佐弁の標準語訳を調べると、「ばか」や「馬鹿者」となっています。でも語源がわからない。
「べこ」を牛のことにすると。
「かあ」を母とする推測では、牛の母がなぜ馬鹿者なのか繋がりません。
「かあ」を顔とすると「牛の顔」になり、眠そうな目とヨダレをくる口元が想像されて、昭和の漫画に出てくるおマヌケの共通モチーフに近いですね。
「へご」が、へごな物 など粗悪な事で使われていて、
「べこのかー」が。なきべその顔、ブス顔(軽蔑語)としている訳もあります。
諸説あるようなので、さらに調べます。

とっちょっちゃっちゅうってゆうちょっちゃって

「〜ぜよ」が付いていたら土佐弁だと認識していましたが、実はかなり複雑な言語のようで、
この見出しを標準語訳すると、「取ってあげているって言っておいて!」と恩義せがましく言っている表現でした。
土佐弁には、少しの言い回しで意味が複雑に変わります

在進行形  [食べゆう:食べている最中]
現在完了形 [食べちゅう:食べて終わっている]
過去進行形 [食べよった:食べていた]
過去完了形 [食べちょった:食べて終わっていた]

と分かれています。これではネイティブじゃないと使いこなせません。

現在でも難解な土佐弁です

現在も使われている土佐弁の一例です。

土佐弁意味
いっちきもんちき「いっちき=いってきて、もんちき=戻ってくる」を合わせて言うと楽しいリズムに。関西芸人の言う“いてこい”みたいに用事だけ済ませて直帰することなのかな?
りぐる「方法や材料を吟味して選ぶ、工夫する」こと。悪い言い方で、理屈で相手を言い負かす意味まであるそうです。
理を繰るから転じた言葉
ちゃがまる壊れる
こーべるおしゃれをする意味から、「そんなこーべって!」と気取ったり上品ぶったりしている態度の意味まで。
のうがわるい「おまん、のうがわるいろ?」と言われて、頭が悪い様に聞こえますが、「あなた、具合が悪いんじゃないですか?」といたわってくれている言葉です。勘違いしそう!
たっすい「弱い、手応えのない」の意味。有名なキリンビール高知支店の「たっすいかんはいかん」ポスターの語源です
どくれる「機嫌を損ねる、へそを曲げる」



テレビドラマでよりネイティブな土佐弁のセリフ表現にしたところ、「意味がわからない」と苦情が来たそうです。リアルと伝達の難しいところです。

旅行や移動制限があった江戸時代では、一生生まれた藩から出ず、言葉はとてもガラパゴス化していったのも大きな一因です。

他藩との共通語 武士は狂言 商人は浄瑠璃

江戸時代の芸能文化が一役買ったという説

土佐弁がこれだけわからないのに、薩摩や長州の志士たちは、薩長連合を締結するときにどんな風に話をしたのでしょうか?江戸幕府を倒すという大胆不敵な話し合いの席でお互いの話している言葉がわからないと話がまとまりません。

司馬遼太郎の書物に、ヒントがあります

上方の商人は遠方の商人と話すとき、できるだけ浄瑠璃の敬語に近づけて物をいう。
これに対し、武士は他藩の士と話すとき、狂言の言葉に近づける
  「菜の花の沖」(二巻)司馬遼太郎より

江戸時代に人気となった浄瑠璃は、「床本」に書かれた台本を義太夫節というイントネーションで節を付けて語ります。この節は、江戸時代の大阪弁のイントネーションとなっており、江戸をはじめ日本全国で演じるときも全て大阪弁で演じていました。

義太夫節はお稽古事をしたり素人浄瑠璃を楽しんだりと当時に必須の教養でした。おかげで商人は方言の壁を越えてコミニュケーションができたといいます。

武士のコミニュケーション

諸藩から江戸へ参勤交代で集まる武士のそれぞれの方言や訛りは、現在以上に聞き取れなかったと言われます。そこで、共通の言い回しとして「狂言」の言語を利用しました。

武士のあいさつの
「それがしは、真田家 家中の 者でござる」は
狂言のあいさつ
「これは このあたりに住まいいたす 者でござる」に通じます

みんなが楽しんだ芸能の「浄瑠璃」「狂言」は面白さを知ろうとすることで、自然と言い回しが身についていき、共通言語の元となったのでしょう。