三十石船 桂文枝

船が天満八軒屋から五里さかのぼって河州枚方についた時は、一番鶏の声が聞こえてきた。
目が覚めた時には天がほのかに白み始めている。
「どこかね、ここは」
男は黙っている。旅の行商人風の男で、ひどく背が低いが顔は不釣り合いに大きい。
「あんた、耳がないのかね。」
「あるさ」

「坂本の旦那、でしたね」
「…」今度は竜馬がだまる番だった。

「いったいおまんは、何者じゃ」
「覚えといておくんなさい。寝待の藤兵衛と申しやす」
「妙な名だなあ。稼業は何をしている」
「泥棒。」

竜馬がゆく1

落語 三十石船 〜夢の通い路〜 初代桂文枝 作

大坂人の江戸時代の楽しみ伊勢参り、通称「お伊勢さん」の旅程の最後は、歩かずに大坂の八軒家まで戻ろうと、伏見・寺田屋の浜から三十石船に乗り込んだところ、船の中でもあれやこれやと・・・。
上方落語の「三十石船夢乃通路」のストーリーです。

初代桂文枝[1819年(文政2年頃)生まれ明治7年没]が作った大ネタです。まさに幕末期の只中に生きた噺家で、騒がしくなってきた時代に色々な人が行き来する三十石船を見ながら創作したのでしょうか。

船乗り込みをして漕ぎ出し、しばらくすると船頭たちが景気付けに歌い出すのが「三十石船舟歌」
二代目桂枝雀が楽しそうに一節唸っているのが懐かしい。
名人五代目三遊亭圓生は、上方の出身なのでナチュラルな京都弁・大阪弁を使い分け、歌の節回しも綺麗でした。
一方、笑福亭一門では、楽屋の皆が(やれさよいよい よ~い)と演者の唄に併せて囃子をつけ夜中の船旅の哀愁を感じさせる演出で必聴です。

5代目笑福亭松鶴が正岡容(まさおかいるる)に
「『三十石』の舟歌の場で、楽屋にいる前座が銅鑼を鳴らすが、それには宵と夜更け、明け方の三つの鳴らし方があり、出来ない者は他人の鳴り物一つ気を回さぬ未熟者との理由で、二つ目に昇進してもらえなかった」といいます。
上方落語にも真打制度があった時代の話。

淀川三十石船

江戸時代初期、世相の安定とともに淀川で結ばれていた伏見・大坂間の交通機関として旅客専用の船“三十石船”が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われていました。
 全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5㍍)。舟底は 0.55m程度の浅い船で、乗客定員28人、船頭は当初4人で、うち3人は上りの時の船曳き要員です。
幕末には“早舟三十石船”が現れ船頭も4・5人~5・6人になり、上り下り共時間が短縮されました。
 船賃は享保の頃では上り172文、下り72文でしたが、幕末には上り下り共その数倍になったこともありました。

下り船
 伏見の船着き場(平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋)からは主に夜に出て、早朝大阪着というのが一般になっていました。

上り船
 大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、主として朝早く出て夕方には伏見に着くのが通例でした。上り船は棹をさして上る所もありましたが、十一里余(約45㌔)を殆ど綱を引いて上ったことと思われます。綱を引く場所は9カ所あって、何処から何処までと決められており、大変な労働と時間をかけて、伏見まで上ることになっていました。