高麗橋_岡田以蔵

嘉永六年三月二十四日

暗い。
提灯を持たない竜馬は、橋の欄干に身をすり寄せるように歩いた。
「おい」
と声を殺して呼びかけたものがある。
あっと竜馬は前へ飛んだ。はかまの裾が切り裂かれたのが、足の感触でわかった。
龍馬は、じりじりとさがって、橋のたもとの柳を小袖にとり、相手の影をすかしてから、キラリと刀を抜いた。
風が、出ている。口の中がむやみとかわいた。臆しているわけではない。小栗柳目録の腕とはいえ、真剣と対峙するのは、これがはじめてであった。

「オンし、北新町の岡田以蔵ではないか」
後年、人斬り以蔵と呼ばれ、京洛を震撼させたのはこの男である。
「事情は旅籠で聞こう」と駕籠に押し込んで八軒家の船宿京屋治郎作方に入った。

「恐れ入ります。坂本さんとわかっていたら、斬り賭けはせんかった。金を無心しちょりました」
聞けば、江戸に出ていたが、国許の養父が死んだために一人で土佐に戻る途中であったという。
「物乞い同然のことをしながら、大坂まで参りました」

龍馬は、胴巻きを解いて畳の上にザラザラと金銀を盛り上げた。
「全部で50両ある。俺は幸い金に不自由ない家に育った。これは天の恵みだ」
以蔵は生まれて小判を手にしたことがなかった。
「それはなりませぬ」
「では、高麗橋まで戻って辻斬りの続きをするか」
(この坊ちゃん本気だな)「有り難く頂戴仕ります。」
「解ってくれたのはありがたい。この場を茶番にしてしまおう」
「それではこの以蔵の気が済みません」

(勝手にしろ)

memo 人斬り以蔵

夜道で辻斬りにあったら、同郷の知人であった。

同郷の知人が金に困っていて、工面してやろうと有り金全部を渡そうとする。そりゃあ以蔵さんじゃなくてもびっくり。
お金の貸し借りは、受け取る側にもメンツや言い訳が大事。
同じ土佐藩の郷士同士といっても豪商の子供と、貧乏な武士の違いは大きすぎる大きすぎる。


1838年、郷士・岡田義平の長男として生まれる。
安政3年(1856年)9月、瑞山に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。翌年、土佐に帰る。
武市の結成した土佐勤王党に加盟し、数々の暗殺に参加。「幕末の四大人斬り」とも呼ばれる一人で、人斬り以蔵のあだ名は後年の創作物によってつけられた。
以蔵は女も耐えたような拷問に泣き喚き、武市に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されている。間もなく拷問に屈して自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を自白し、その自白によって、まだ捕えられていなかった同志からも新たに逮捕される者が続出するなど、土佐勤王党の獄崩壊のきっかけとなる。