鳴門海峡

嘉永六年三月二十二日

-船が出たのは、翌る未明である。

お田鶴さまは、胴の間の一角を定紋入りの幕でかこんだ籍に入った。
「竜馬どのも、ここにいらせられますように」
とお田鶴さまは声をかけてくれたが、竜馬は
「いや」といったきり、船の上に出てしまった。

竜馬は、船のともで潮風に吹かれながら、舵を取っている老人の姿を子供のような熱心さで見つめていた。老人があきれて、
「旦那、よっぽど船がお好きと見えますな」
「ああ、好きだな」
「旦那、ひとつ、舵を教えましょうか」
「それよりも、俺にやらせてくれ。お前はそこについていて、いちいち手直ししてくれればいい」竜馬は、舵取りに弟子入りしてしまった。

「しかし旦那さまなら剣術をやっても、きっと日本一になりなさる」
「お世辞を言うな」
「旦那は、戦国のむかしなら、きっと海賊大将にでもなりなさるお方じゃな」
「物盗りか。バカにしちょる」

翌々日、鳴門丸は大坂の海に入り、安治川尻の天保山沖に怒りを投げ入れた。

memo 千石船

江戸時代の船で有名なのは、蝦夷地・北海道から昆布やニシン干しをはじめとした北の幸を運んでくる北前船。
北陸から、金沢を周り、下関を抜けて瀬戸内海を通って大坂に着く廻船も年を経て性能が上がり、北海道まで定期便を出せるまでになります。
「弁財船」と呼ばれる木造の帆掛船で、積載能力は、江戸初期は350石あたりだったのが江戸後期には1,000石積めるほどの大型船が運行されるようになり千石船という呼び名が一般化したそうです。
日本海を航海するといっても、天候を見ながら陸沿いを航行。
下関からは瀬戸内の内海を航海しており、当時に日本に来航した外国の外航船と比較すると、規模や堪航性では劣っていた。
当時は、各藩の戦力強化につながるため大型船を持つことを禁止していたので、陸を離れて大海に出るには危険が伴うことでした。

土佐からも、大坂との貿易船があり、かつお節を船に乗せて大阪に送り込んでいた商業船の記録があります。
京料理や食い倒れ大阪の味の基本である「昆布」「かつお節」は、こうして大阪に集まっていた。