病気治療のために・・・
武蔵国(現在の埼玉県熊谷市)で、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女に生まれた「ぎん」(嘉永4年3月3日)は、16歳で近隣の裕福な農家の長男と結婚。
結婚から数年経った明治3年に、夫から淋病をうつされ、その病気がもとで体調を崩して離婚します。治療のために上京して、<明治新政府により東京に設立された最高教育機関大学の>大学東校に入院し婦人科治療をうけますが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性。
男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、自分が医師となって、同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意をします。
1873年(明治6年)上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事します。その後、なんと‼頼圀から後妻にと望まれることに。
男装の医学生
1875年(明治8年) 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学
1879年(明治12年)首席で卒業。女医の必要性を同学校の永井久一郎教授に訴えて、私立医学校・好寿院に特別に入学を許されます。
当時の医学生や医師達は男性ばかり。吟子は髪をバッサリと切り、男装して通い、男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ3年間で優秀な成績で修了します。
女医になる前の3年間の通学は、はかま姿で高下駄を履いていた。その頃は女医は認められていないため、ヘアスタイルはショートカットで、男性と同じ髪型であった。
いざ、医師の免許を取得しようとすると、「日本には女医は一人もおらず前例がない」事を理由に、東京府に提出した医術開業試験願は却下。翌年も同様のため、埼玉県で提出しところ同じ結果となります。この頃のことを、吟子は『女学雑誌』354号にこのように書いています。
…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。
吟子は多くの人の助けと共に、『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調して請願し直し、
女が医者になってはいけないという条文がありますか?
無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないですか。
女性の医者がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ
1884年(明治17年)9月 医術開業試験 前期試験を受験して合格。
1885年(明治18年)3月 後期試験 を受験し合格。
同年5月、湯島三組町に診療所「産婦人科荻野医院」を開業しました。
開業当初は第1号女医と新聞や雑誌にもてはやされ、一時は患者にあふれたものの、明治時代はまだまだ一般庶民は医者にかかるお金もなく<祈祷師や民間療法に頼る時代>でした。
その後徐々に「女性医師は信頼できない」という風評が出て、開業医としては成功しませんでした。
しかし、女性に対して医術開業試験への門戸を開いた荻野吟子は重要な人物です。
40歳の時、16歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかた ゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚します。
夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡ることを決意。1891年(明治24年)から何度も北海道に渡るが、地盤を作ることに失敗。
1894年(明治27年) 6月 吟子は之善のいるインマヌエル(今金町)へ渡り、北海道で診療所を開業しながら夫を支えました。
夫が同志社に再入学することとなりましたが、吟子は札幌(南1条西5丁目1番地)に移って医院を開業。牧師となって札幌に戻った夫・志方之善は明治38年に病のため病死。
晩年にも東京・本郷に戻って病院を開いていたが満62歳で病死。
埼玉県荻野吟子賞
埼玉県では、吟子にちなんで男女共同参画の推進に顕著な功績のあった個人や団体、事業所に「埼玉県荻野吟子賞」を贈っています。
荻野吟子由来のメディア
小説 渡辺淳一『花埋み』(1970年8月30日、河出書房新社)
テレビドラマ ポーラ名作劇場『花埋み』(1971年、NETテレビ)演:大空真弓
漫画 寺館和子『蒼く輝きて〜日本最初の女医、萩野吟子〜』(単行本:2019年 – )
